蝦夷リス

近道への遠回り・数十年前作家になることを考え、特殊な語れる体験がなければと思い日本を後にしました。文壇のなかでのコネなどなかったからです。二十代までは必ずこの癒着がものをいうと信じてきてました。

漫画を描く少年 11 限りなく接近した二人 ―夏の課外授業


限りなく接近した二人 ―夏の課外授業


 『漫画研究会』が立ち消えになると同時に、茂樹は独自の道を模索し歩んでいかなければならなくなった。刺激も同志から受けることがほぼ皆無のなかでは、自分で自己を育むしかなかった。
 仁平が担当する古典文学に茂樹は多少の興味を惹かれていた。三年間も学校に通わなければならないと思うと、通う理由を肯定的に見出さなければならなかった。でなければ到底やりきれたものではなかった。ましてや彼が後生大事に中学生の時から持っている手塚治虫の『漫画入門』には豊富な知識を吸収すべきことが記してあったし多読濫読もするべきことも述べてあった。
 我をして通学させる理由の少しでもある科目をあえて選択させると、『美術』『地理』『歴史』『古典』が残るのだった。


 そしてまもなく、高一年の夏休みが始まった。そのころまでには茂樹もモーパッサンの短編集を文庫で買って読んでいた。また同じく短編集でオーヘンリーも買い求めていた。前者の作品の後書きに同じく短編の妙手として後者の名前があがっていたからである。その連鎖で、割腹して目立とうとして、自己の実力で有名を獲得したわけではないと思われた三島、この絶対に読むつもりのなかった三島の作品も購入して少しづつ読むようになった。


 夏休みの時間を利用して週に二日間は仁平先生も古典の特別授業を受け持っていた。他の先生はスポーツなども担当していて正規の授業を特別にやるような教師は他にいなかったように見えた。少なくとも他に授業があっても関心のない茂樹にはないようなものだった。この古典の授業にも出席していたのは僅か七名ぐらいなものだった。さすがに東大を目指す背の高い稲葉や女子ではトップの成績と噂されている岩崎なども出席していた。
 文学書を通して古典文学にも茂樹はあらたな関心を抱き始めていた。
 ただし、この古典語で展開される世界と自分の漫画とは、直接には関係しないし、利益に繋がらないと感じて、まもなく興褪めするのであった。
 授業の前半が終わって、教室に沿って長く伸びたバルコニーにでると、風がそよいでいて快かった。
 背丈のある稲葉が独り言のようにぼやきだした。
 「古典はわかんねえからな。なにをどんなふうに勉強していいか、とらえどころがない。そこが数学とか物理なんかと違うところだな」
 だから古典の授業にでてきたと言いたいようだった。そして続けて茂樹のやろうとしていることにも触れた。
 「漫画をやって、もし漫画家になれたとしても、結局は芸術でもなんでもないから、やっても虚しいことなんじゃないか」 
 噂ではかなり成績の良い生徒だと聞いていた。入学試験もベスト・スリーに入る実力で堂々と合格したということであった。彼からすると漫画家とか言っている茂樹のような少年はチャンチャラおかしい存在を通り越して、真面目に勉強している生徒にとっては侮辱になるのかもしれなかった。
 それでも、思ったままのことを茂樹は口にしていた。
「その漫画を芸術的なものにしようと思う」
東大志望者は一瞬、異様なものでも見るようにまじまじと茂樹の顔をみていたが、すぐに今度は考えるだけでも馬鹿らしいとでもいわんばかりに
 「ふん、そうかな。そんなことができるのかな」
 と視線を樹木の濃く深い緑に囲まれた旧館のスレート屋根のほうに移しながら露骨に呟いた。
 茂樹はふと隣の教室の窓に動いた影に気がついた。しかもそれは岩本玲子ではないかと感じた。彼女に、そして自分自身にも決意を表明でもするように茂樹は応じた。
 「できると思う。漫画だって芸術的で優れたものが出来るに違いないと思う。…もしそれが失敗しても、また意味がない結果しかでてこなかったとしても、あとからやる者にその方向が駄目だということが示せるじゃないか」
 「……」
 「そういう意味でも、信じることを最後までやり通す意義はあると思う」
 茂樹が本気で言っているらしいことを理解し、またかなりの重症だとでもおもったのか、もうこの東大志望の生徒もなにも言わなかった。言う言葉がなかったのかもしれない。
 古典の後半部の始業時間の呼びかけが室内からあり、再びバルコニーから教室のドアに体の向きを変えたときに、隣室の窓に滲む影が少し動いたような気がした。そしてその姿が茂樹にはみえないのに、曇りガラスの背後には絶対に玲子が耳をすませてくれていたと勝手に思い込んだ。授業の後半はそのために全く理解できなかった。
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 なぜ玲子が夏休みの期間中に学校にきているのか誰にも訊ねられない。彼女に特別な関心のあることは秘め続けていたので、茂樹にわかろうはずもなかった。もしかしたら何かのクラブ活動にでも参加しているのかもしれないと思った。
 二日後には再び古典の特別授業があった。彼が参加した理由は古典の世界、おもに平安時代の女性が登場する世界をいずれは描きたいという気持ちがあったからだった。谷崎は以前から読み齧っていたが、三島なども読むようになっていた彼の内奥では、平安の女性がこの上もなく優美でフェミニンで理想的なものに思うところまで突き上がって来てしまっていた。茂樹の頭の中ではこの理想像と合致する女性として、神秘的で官能的でもある玲子が実際にあらわれ、彼女のその姿をまた見ることができるかもしれないと言う強い期待が、今度は新しく強い動機となってこの特別授業に彼をでかけさせた。   
 その日も新館の校舎は白くがらーんと広かった。窓外の濃い緑の樹林と、上空の明るく青い空に長閑に浮かび移動する白い雲が流れ、玄関から廊下に一人歩いている自分がタイムスリップでもしてしまったような気持ちがした。どこか場違いなのである。本当は家に閉じこもって漫画に勤しまなければならない。それが本来の自分の目的であった。本当に一縷の希望からわざわざ自転車で海棠まで茂樹はきていた。来させたのは岩本玲子を一刹那でも見たいという気持ちからであった。が、それが可能なものかどうかはわからない。それでも、自分は夏休暇で漫画のために何かできそうなのに、それもせずに出かけてきているのであった。


 二階の一学年Aクラスの教室が古典文学の特別授業の場所として使われていた。そちらに向かう途中、一階の廊下で、太った体を揺らし眼鏡を小さな布切れでずりあげては目の辺りを拭く大男と出くわした。大狸と綽名のつく地学の教師であった。茂樹を認めたその顔には最初はなんの感情も浮んでいなかったが、
 「なんだ、今日は……仁平先生のとこか」
 と面白くもない顔で質問してきた。その口調から、茂樹をみたときから古典の女教師の授業に彼がでることを、この狸は知っていたのではないかと感じた。
 「はい、古典の授業に、これから……」
 もしかしたら地学の特別授業もあるのかもしれなかった。そこには一向に興味も茂樹が示さず、他の特別授業にでるということで、そのことにも不服だったのかもしれない。
 そこへ女の子の高い声が大狸の背後から湧き上がった。この男の体のために、彼女たちの姿をみることが出来たのは、すぐ彼の背後に彼女たちが近づいて声をあげたところからであった。大狸は体を半転させ、すぐにそちらにすっかり注意を完全に奪われた格好になった。
 「中野、そんな短いのはいて」
 いつも男子生徒の中に自分から混じって休憩時間や放課後に騒いでいる太った女子生徒が中野だった。意外なことに、玲子もその脇に一緒になって歩いていて、まさに階段を上がるところだった。
 中野は一度茂樹に愛嬌を振りまき悪戯もして近づいてきたことがあったが、相手にしなかった。だいたい異性とか関心をもつ余裕がなかったからだ。そして持つとしたら玲子しか他に考えられなかったぐらいだから、拘わりあわなかった。
 なぜこの二人が一緒にいるのだろうと茂樹は不審に思った。が、たしか、同じ巌清水という地域のでであるのを聞いたことがあった。それで一応納得がいったが、この取り合わせはまったく釣り合いを欠いたものだった。おかちめんことダ・ヴィンチの描く聖女が一緒に並んでいるようなバランスの崩れがあった。
 「下着が見えちゃうだろ。後ろに、ついて来ちゃうじゃないか」 
 そういいながらも大狸は彼女たちの階段を上がっていく後ろ姿を熱心にみあげているようだった。茂樹もそこには彼ら二人しかいないのに変なことを言う教師だなと思いながら玲子が微笑みながら上階に上がっていく姿から目を離すことができないでいた。
 階段はしかし中ほどで横から見る彼らにはくの字型に折れ曲がっているし、欄干代わりのコンクリートの低い塀になっているので、すぐに二人の腰から下は死角に入ってしまった。ただ、玲子の意外な、プライベートな姿に遭遇したことが彼の脳裏に焼きついた。
 いつものプリーツのスカートの制服と違って、色は同じ濃紺でも、淡いピンク色のブラウスにタイトスカートで健康そうな膝と太腿の白さが茂樹の目を射た。
 大狸にあんな性的な冷やかしを言われて玲子は嬉しかったのだろうか、いや、そんなことはない、中野が大きな平べったい顔で大笑いしているのでつられて微笑んでいたのに過ぎないと考えた。高貴な雰囲気を持つ彼女があんな野卑な言葉が嬉しかったとは到底思えない。
 確かに美しい女の子が、あんなミニスカートを穿いていたらそこらじゅうの男どもの視線が集まってしまうのは目に見えている。それに関しても、それだけ彼女を思い慕うライバルたちは多くなるだけで彼にとって、ちっとも良いことではなかった。やはり自分に関係のある、手の届く女の子ではなかった。だいたい女の子自体に興味を持つ心の余裕はこの漫画家志望にはあってはいけなかった。
 ただ、玲子が微笑みながらも、そして茂樹の姿がみえていたはずなのに、彼女の視線はむしろ大狸は捉えていても自分とは交わりあわなかったように見えて、それが残念であった。
 茂樹のなかの漫画家志望としての強いはずの意志は、こと玲子に関係してくるとすぐにぐらつきだしていた。


「あの二人な、こないだ屋上でキスしてたぜ」
 色が白く目が細い瓜実顔の東大入学志望の生徒と、女の子のなかでは一番成績が良いという岩崎との噂を、帰りに好川が面白がって、ペダルを踏みながら茂樹に話すのだった。
 彼らが午後の穏やかな陽射しのなかで、唇を接点にして接続し、その長いシルエットを温もりの残るコンクリートに伸ばしているのが、茂樹の目に浮かぶようだった。だが、ほとんど何の感情も彼にはでてこなかった。
 同じく古典の授業に参加していた好川のほうは、三角に尖った大きな鼻を上に向けて、張った顎を擦りながり、さも面白そうにヒェヒェと笑っていた。それは何かを思い出しているようにも見えた。
 茂樹には数時間前に見た、岩本玲子が階段を上って行く姿だけが脳裏に付きまとっていた。そして止めようもなく、その情景だけが終了してはまた再生され、それが何度も繰り返されるのであった。‎