蝦夷リス

近道への遠回り・数十年前作家になることを考え、特殊な語れる体験がなければと思い日本を後にしました。文壇のなかでのコネなどなかったからです。二十代までは必ずこの癒着がものをいうと信じてきてました。

漫画を描く少年 10  小説家を目指す少年


 小説家を目指す少年


 大学進学が眼中にない茂樹は、本を読まなければならないと思った。それで高校の図書館に行ってみたが、そこで手にとって紐解いてみる気になった本は、第二次世界大戦関係のものであった。しかし拾い読みをするだけでとても通読などは不可能な分厚さであった。日本文学講座の革張りの単行本もあったが、手にする気持ちにはなれなかった。そこまでやる必要がないような気がしたのである。
 図書館は空いていた。座っている生徒はだいたい受験勉強をやっている連中で、読書に耽るような者はひとりもいなかった。あまり本を書棚から出し入れしていると目障りになるらしく、睨み付けられたりしたこともあった。
 大体人が触った本を開いて読むのが茂樹は嫌いであった。
 通常、彼は海棠駅に向かうときに、いつも最短距離を選んで通学している。白亜の校舎から南側に細い坂道が続いていて、道の東側には濃い林が鬱蒼と茂り、西側は絶壁になっていて、低い部分は一メートルほどであるが、校舎の入り口付近では十メートル以上も切り立っていた。
 その緑の柵沿いに坂を降りると、もう駅に繋がる歩道にでるのであった。
 だが、この日は街の市街を通っていこうと思った。いつもまっすぐに帰っていたが、それも曲のないことだと思ったからだった。
 茂樹は街中を詰襟の黒い学生服で歩いて本屋のショーウインドーで立ち止まった。そして店頭に並ぶ書籍に眼を落として色々な雑誌の賑やかな表紙を眺めていた。
 そして手にどれかをとって立ち読みでもしようとしていると、後ろから声をかける者がいた。池沼であった。彼のそばにはこれまで視たこともない少年が一緒にいた。とても顔が白く、その肌はところどころピンク色に日焼している。そして奥まったところに小粒な眼があり、しかも鼻が太く高い。その若者は白い自転車に跨がっていた。池沼は二人をちょっと面白そうに紹介した。彼はどうみても純粋な白人であった。
 ふたりともすでに私服に着替えていたので、あらためて彼らが自分などとは違う人口が六万人はいるというこの現地の海棠市在住の高校生なのだということに思い当たった。
 茂樹のことは一応この日本人離れした顔と体格の同級生には話してあるようだった。川西という生徒は噂に聞く茂樹を目近に見て確認したかったかのように細かく観察していた。その目はじっと見つめてくるようなところがあった。
「彼は、小説家を目指しているんだ」
 おもむろに、茂樹の感情の変化を少しでも見逃さないという感じで見詰め観察しながら池沼が、川西について触れた。
 「小説家を…」
 茂樹の脳裏には学校の教科書にみられる芥川龍之介や夏目漱石の肖像画がすぐに浮かんだ。漫画以上に小説家への道は険しいんじゃないのかとすぐに思ったが、そんなことは口に出さなかった。
 文学者を目指しているというこの真っ白い少年が途方もなく難しい世界を望んでいるようにみえて、全く話になならない。なにを言って良いか二の句もつけない。
 茂樹の膂力のない声に、この川西はすべてを理解したらしく、ちょっと言い訳気味に呟きだした。
 「漫画家と同じで小説家もいろいろなことを知っていなくちゃいけないし、経験しなくちゃいけない」
 そんな説明を聞いても、茂樹は「うん」と頷くしかなかった。漫画はまだ目でその成果が、上手とか下手とかすぐに見える世界である。が、小説となると、次元が違って感じられた。
 だいたい学校で学ぶ小説だって、現代文として逐一解釈をしながら読んでいくのである。しかもなにがどこが素晴らしいのか、それほど茂樹などが理解できているわけではなかった。ちっとも面白いと思えない詩歌や掌編小説や作品の一部が掲載されている場合があり、どういう風に鑑賞するべきか、醍醐味がどこにあるのかも、まだ茂樹には分っていなかった。そういうものを書くという立場になろうとしていて、それを目標にしているというこの白い少年の精神構造が彼には想像もできない。
 それは上せあがりも甚だしいことだった。文学者といわれる人たちは天才でなければなれないはずだった。
 池沼は唇に笑みを浮かべて、二人の口数少ない会話に耳を傾けていた。
 どんな本を読んでいるのか訊ねると、
 「モーパッサンなんかはすきだね。アガサ・クリスティーなんかもいい」
 とも言っていた。
 茂樹は口のなかでその作家たちの名前を反芻していたが前者の作品は『首飾り』と『女の一生』ぐらいしか知らなかった。またクリスティーと聞いて推理小説じゃないか、とちょっと相手にがっかりするものを感じた。
 やがて池沼が「それじゃー」と別れを告げ、川西も自転車の前輪を左右に操作して、歩く池沼と同じ速度で進めるように、白いズボンの膝も両側にくの字型に突き出してバランスをとり、ペダルをゆっくり踏むのだった。そして
 「作家はうんとあそばなくちゃな。俺も遊ぶよ」
 と再び妙なことを後ろにいる茂樹を振り返りながら声を投げかけるのだった。ちらりと同じように茂樹を振り返った池沼の顔には、また笑みが湛えられていた。
 茂樹は二人の高校生の姿に余裕を嗅いで少し羨ましく思った。また、玄武町と違って流石に海棠市ともなると白人の子も生活しているのだと思った。それと作家志望でもあるということで二重に彼は驚かされていた。あとで、彼を同じ学年の男子クラスにみかけ、しかも高校が出版している年間誌『優美』に彼の掌編が掲載されるのを読むことになった。