蝦夷リス

近道への遠回り・数十年前作家になることを考え、特殊な語れる体験がなければと思い日本を後にしました。文壇のなかでのコネなどなかったからです。二十代までは必ずこの癒着がものをいうと信じてきてました。

物書きの日記。そして消えた推敲中の原稿

小説を、文学作品をなんとかして書き上げたいという人の日記というのは、やはり副産物ないしウオーミングアップのために書かれるということだと思う。
武田百合子の日記を少し読んだが、やはりそれほど関心のもてるものではないと思った。まだカフカのほうが感情移入できる気がする。
そういう同じ反応、コメントはMarcel-R=Rも発していることなのですが、ということでこの日記を見に来られる方は、創作に関心のある人以外にはつまらないものだと断定できそうですし、前もってご注意したほうが良いのかもしれないですね。


過去に書いた作品のうち、『同郷の女』に眼をちょっと眼を落としてみて、ホラー系なので、わたしの作品としては例外にあたりますが、見ているうちに、これはおかしいとか、これは直さなくちゃとか、そんな気持ちから推敲を始めていた。物事の開始というのはそんなものだと思う。リルケが書いたようにとにかく始めてみること作ってみるとことということになる。
半分以上推敲できて、少し幸福感、満足感を味わった。推敲も悪くないと思った。それにしてもどこにそのなかの登場人物のお婆ちゃんはいなくなったのか、すごい欠点があることも知った。こんなものをよく書いたなあとちょっと呆れたぐらいであった。


そして座って書いていることと眼の疲れがでてきたので、節電状態にして、いつのまにか8時間近く放っておいてしまっていた。
翌日推敲の続きを行おうとマウスをいじって見たり、スイッチを軽く押してみたがまったく稼動してくれない。そのままそっとしてあげて、つまり時間が必要なのだろうからと思って、他のノートパソコンでネットを行い、メールなども書いていて、一時間以上も時間は経過していった。とうとう腹が立って、長くスイッチをおしてスイッチを完全にオフにした。十分も経過して再びスイッチをいれたが、推敲して幸福感に浸らせてくれた原稿は記録してなかったのか、どこにも見つからなかった。やけになってウサギのチョコレートをばりばり咀嚼して横になって寝入った。
朝六時には起きていたのに、再び目が覚めたときには午後1時であった。