蝦夷リス

近道への遠回り・数十年前作家になることを考え、特殊な語れる体験がなければと思い日本を後にしました。文壇のなかでのコネなどなかったからです。二十代までは必ずこの癒着がものをいうと信じてきてました。

どうしても獲りたいある県の文学賞

八月ももう真ん中まで来てしまいました。現実に生きていくために、またテレビで放映されるドキュメントとかハリウッドの素晴らしい映画とかもあるしで、執筆ができない。もちろん、これは「お前の自分の律しする能力が低いからじゃないか」と面罵されそうだし、自分では常日頃から自らを罵り続けているのですが、それでも、あまり進まないですね。


 山奥にでも隠居するか、ネットもできないし、テレビも見られない状態にしてしまうか、そこまでいかないとなかなか自己を見つめるとか、そんな文学的にはとても大事なことは出来ない気がする。もちろん、大衆文学は違いますが。資料も必要だし、それにはテレビもニュースもネットから、図書館から、必要となるでしょう。


でも、わたしが目指しているのはやはり純文学。それでなければ各意味もないのではと思い続けているので、現実生活では収入もほぼないでしょうし、純文学とか目指す人は貧乏人になって、嫌いな現実生活に最終的にはあやつられていくしかないのでしょう。


三島先生も行っていたように、浅田哲也、色川たけひろ氏もやっていたように、両方に手を出していくのが現実的な方法なのでしょう。どちらも書く。
大衆的な小説で生計を立て、純文学でほんとうに自分で書きたかったものを執筆しようと努力を怠らないというこの二股で行くしかないと思います。二股といっても、どちらも文字をかくことなので、そんなにひどい精神的なトラブルにはならないと思います。
比較することはできませんが、文学への夢をみることができるのは、アフガニスタンとかアフリカ、世界のあちこちで発生している殺し、殺されるかもしれないという恐怖や飢餓状態、浮浪者状態とか思うと贅沢なジレンマといえるでしょう。