蝦夷リス

近道への遠回り・数十年前作家になることを考え、特殊な語れる体験がなければと思い日本を後にしました。文壇のなかでのコネなどなかったからです。二十代までは必ずこの癒着がものをいうと信じてきてました。

創作にかかる前に、日記に入ってしまう。

日記はやはり私の告白の場。なんでも感情の垂れ流しの出来る場所。そんな相手です。
それが創作に上手く機動力として役立ってくれるかどうかということを、今は、つまり創作しなくちゃと思った瞬間に、この日記の存在に疑問を持つようになってしまったわけですが・・・・
 
 誰にでも危機があったように、そしてあるように、わたしにも何度か人生上で危機があった。今も続行中であるが。
 私の全財産を盗み取り、そして知らん顔をしている者に対してどうしていいか私には全く分からない。こんなことはあとになってから、あの時、ああすれば良かったんだと思うのであろうけれども、今のわたしは全くどうしていいか分からない。
 周りの人は、私が盗難されたそれ相応の激しい態度を表向きにはみせないので、本当かな、作り話じゃないのかなと陰口をしている。盗んだ当人に対してよりも、このことを信じもしないし、逆に嘲笑するそんな者に直に接して、間違って殴らないように気をつけなければならないと思ったりもした。そんなことにならないためには、苦しくても喋らないことだという結論に達した。
人の苦しみは笑い話の種にされ、こういうものたちに喜びさえ与えてしまう。信じられないことであるが、こういうことは頻繁に発生するのではないだろうか。
この私を嗤うものは、いつもなにを言っても自分のことに関しては、あるいは人のことでも悪く枉げてとるものでもあるが。