蝦夷リス

近道への遠回り・数十年前作家になることを考え、特殊な語れる体験がなければと思い日本を後にしました。文壇のなかでのコネなどなかったからです。二十代までは必ずこの癒着がものをいうと信じてきてました。

体だけを動かした日

夕方に仕事が入っていた。午前八時には起床していたが、メールをチェックするとか、電話が入ってくるとかいろいろ朝から用事もあった。
終日使えるチケットを利用していろいろ回って処理しようと考えるが、結局家をでたのが、午後1時だった。最初にB博物館に行った。F駅から歩いて行った。雪の残りが白く歩道の下の黒土にみえた。
残念ながら、彫像やビザンチンの新書本ほどの大きさで各10ユーロほどのものはあったが、絵画関係の本は存在しなかった。DVDなどもなかった。二階の喫茶店の右隣のショップの三十代の暇そうにしている店の男に訊ねてみると、一応隠れた場所にも体をいれて捜してくれたがそういうものはなく、また老練の晩年のゴッホのような目つきと頭の形をした痩せぎすの芸術的な執念に燃え上がりそうな異質な男は、五年前にはあったかもしれないという答えを返してきた。そのさいじっと私の目から眼を離さずに。



やむなく他の博物館にも足を運んだ。驚いたことに正面側が工事中のために美味しいイタリアレストランや中国系のお土産屋やアートの店やドイツレストランが潰れていた。
こちらを歩き回るのはもう数年ぶりになるが・・・・



PにもなくANにもB博物館のDVDは存在しなかった。収穫無しでその場をでることになった。



H駅の向かい側にはアジア食品店があるが、そこで北海道の小豆を使っているという羊羹が一本2,5ユーロであったので買った。



F駅まで行き、そこでは0,4Lで4,20ユーロのフィトネスドリンクを買ってストローで飲んだ。値段を3,50だと間違ってみてしまい、胡瓜も入っているが、ハニーメロンや林檎、キュイとあったので、買ったのであった。飲んでみると胡瓜の味ばかりした。失敗したとおもった。



植物園の妻のもとに行った。植物の緑が少なくなって空間が全体的に目立った。ミニマム状態である。でも淋しくは感じなかった。相変わらず笑顔を若く美しく見せてくれている。



帰宅して40分も休むと着替えなおして出発した。



完全に荷物がアムスに置忘れられたのがひとつ、あとは鍵や黒い車輪が破損して消失していた。大分中心から離れた地上階のCの一歩手前に荷物の処理場はあった。
あとからきた眼鏡をかけた女性がヒステリックに怒りまくっていた。わたしが三人を同時にしあげていて、あとから来たこの女性にとっては本当は感謝すべきことなのであるが、そんな風にはみていなくて、後ろから叫ぶのをやめていなくて、しかも、この小柄で酒臭い女性の前には大柄な髪のほとんどないドイツ人の中年男性が忍耐強くまっているのも構わずなんとか自分がそれを超そうとしている。違う場所にいくとそこのドアかカウンターを強く敲いた。さすがに受付のうちの一人の夫人がたたかないようにと注意した。その体から酒の臭いを放っている婦人は早い足取りでドアを押し開けると出て行ってしまった。すごい剣幕で出て行ったといってもいいかもしれない。



それからわたしたちはタクシーで宿泊するSt.Mに行った。そこに到着していた人たちは現地の日本人の婦人二人がドイツ人の中年の黒い服をきた金髪の二人と会話を少し交わしては日本語で話していたが、わたしが荷物のことを話すと、そんなことをドイツ語で説明できるだろうかとこころ細いことを言っていた。TLも不安そうに、どうして言いかわからないという態度であった。結局、Wさんに連絡してすべて任せようという一番簡単な方法に変わった。そのために保険に入ったんだからと言っていた。
明日は、つまり今日は仕事がない日なのに、ゆっくり話しましょうと言われてしまった。



この日は結構いろいろなことのできた日だった。やればできる。動けるという経歴を作ったような日だった。